RSS | ATOM | SEARCH
常滑にて 干支飾り と 和菓子

数年前、常滑にある澤田酒造さん(白老さん)の蔵開きを見に、初めて常滑駅で降りた。週末の午前、駅の改札を出ると、笑ってしまうほど多くの、酒蔵を目指す呑み助達が臨時バス乗り場に行列していた。

そのバスに乗り込み、最初に目に止まったのが「常滑屋さん」だった。「常滑って知らないだけであか抜けしてる〜」と思った。

 

 

あれから何年も経ち、先日初めて常滑屋さんに行った。ご店主さんと懇意にされている方に私はお世話になっている事からお話する機会を得た。その日、店の奥でハンドメイドの正月飾りが販売されており、私は常々抱いていたちっぽけな疑問を口にした。

「あの〜干支飾りって1年経ったら捨てるものなんでしょうか?」

「ただのゴミみたいに捨てるのって何か抵抗あるんですが、捨ててもいいんですか?」

 

ご店主さんは親切にも教えて下さった。

「1年で捨てなくても良いと思いますよ」

「干支飾りの処分に抵抗があるなら、常滑で干支置物の供養祭っていうのがあるんですよ」

「そうなんですか!」

いい事聞いた!さすが焼き物の街、心得てるわ!と私は感動した。

詳しく調べると2019年1月8日から陶磁器会館で受付してくれている。

供養感謝祭は1月27日9時30分からだ。この機会にため込んだ干支飾りを広げてみる気になった。やった〜、やった〜だ!

 

もう1つ、常滑屋さんで良い事を知ったと思ったことがある。それは下の和菓子の事。なかなか一捻りある美味しい和菓子だった。どこのお菓子か聞く前にランチメニューに常滑のどこの和菓子屋さんのお菓子か書いてあった。そのお店は、ずっと入ってみようかどうか迷いながら通り過ぎていたお店だったので、次に常滑に行ったら、今度こそ中に入ってみようと思った。さりげない情報発信で地元応援しているのがまた恰好良いなぁと思うお店だ。

 

 

 

author:1230fan, category:知多半島, 00:53
comments(0), -
南知多 羽豆岬 ウバメガシのトンネルから見えたもの

 

羽豆神社を訪ねたきっかけは一色氏だったが来てみて思った事がある。

それは「尾張氏がここにも居たのか」という事だ。私は三河の中世史の本を読んでいるが、中世以前の時代に尾張地方を支配した「尾張氏」の名前を本の中に見ていた。だから、この神社の御祭神に尾張氏の建稲種命様を見た時には「ここでもお会いしましたか」と思った。確か、名古屋新栄の白山神社の下の古墳も尾張氏ゆかりの人の古墳だと読んだことがあったので、新栄から南知多は随分遠いのにこんな所まで支配されていたのですか、すごいなぁと思った。ちなみに建稲種命様は日本武尊様の東征に副将軍として従軍しているんだそうだ。(この方が神話の世界の人なのか、実際にいた人なのかは私には全然分かりません。)

 

 

一色氏が海を征服した事に端を発して、昔の人が船を作ったり、操船できていたのかなぁ、「そんな事、無理じゃないの?」と考えながら岬の尾根にあるウバメガシのトンネルを歩いていた時、その裂け目から海が見えた。

 

 

両岸がどこなのか?を知りたくて、急いでグーグルマップを見た。すると、右が志摩半島(鳥羽)で、左の岸が伊良湖岬で、真ん中は神島のようだった。(なぜか神島だけは名称が地図に出てこなかった)

「ここから見ると伊勢志摩と伊良湖は近いなぁ」と思った。そして、「あああ、ありえるかも知れない」と不意に思った。

 

以前読んだ古道の本に「大昔、大和政権の頃、奈良から伊勢に出て海を渡って伊良湖に渡ってくるルートが東海道だった。そもそも海を通る道だから東海道だ」という話があり、私は「そんな、、陸路より海路の方が死ぬ確率が高いのにわざわざ海なんか渡るか?嘘でしょ」と思った。確かその本には、「大昔の人は直線的に一番近い道を通る傾向があった」というような事も書いてあり、「そうなの?」と私は疑っていた。

今、この風景を見て「ありえるかも」と考えを変えた。なぜなら「近いから」。もし、その時代にここからの風景を見た人が都人に話をする機会があったなら、「東を目指すなら、鳥羽から海を渡った方が陸路でぐるっと回って東に行くより近い」と言った可能性はありえるかも知れないと思った。

 

で、また船はどうしたんだろう?に戻るが、うちに帰ってきてから、「白村江の戦い」を思い出した。この戦いは663年にあった。その時代に日本人は船で朝鮮半島に渡っているんだから、鳥羽から伊良湖へ船で渡るなんてオチャノコサイサイと思ったのかも知れない。

(一般人が自分の空想で簡単に結論づけました。歴史的な検証はありません。すいません)

 



 

author:1230fan, category:知多半島, 00:15
comments(0), -
南知多 羽豆岬の羽豆神社

南知多に羽豆(はず)神社があると知ったのは、いつものごとく、岡崎市史 中世の本による。愛知県民の端くれの私にとって、「はず」と言えば、「幡豆」(2011年から西尾市編入)だった。だから、なんで同じ呼び名の場所が南知多にあるんだろう?しかも、足利氏の庶子筋の一色氏の本拠は西尾の辺りなのに、どうして南知多の羽豆神社に一色氏は経典を奉納しているんだろう?という興味から南知多の羽豆神社に行ってみようと思い立った。(上の表札の下の部分に1408年(応永15年)に奉納された経典の事が書かれています。)

岬は日間賀島にわたるフェリー乗り場のすぐ横で、不自然なほどに切り立った岬です。フェリー乗り場の第二駐車場方向に進むと大きな鳥居が出てきます。そこから先は版画が道案内してくれる、風光明媚なとても気持ちの良いところ。市史によると、1391年頃には一色氏は知多郡の守護で三河湾、伊勢湾を制圧する地位におり、1392年頃には、日本海交通の要地である若狭と丹後を領地とし、幕府内での地位を確立したとの事。「一色氏は海の征服者だったんだ、知らんかったなぁ」と私は思った。

一色氏の海は神社の目の前です。境内の海に臨む場所に立ち、海を見渡し「気持ち良い」と大きく呼吸し、今から約627年前にもきっとここに立ったであろう人の気持ちを空想した。眼前の海だけでなく、遠くの日本海も自分のものになったなんて、「獲ったど〜〜」と叫びたくなっただろうなぁ、と。

そして疑問が浮かんだ。一色氏は船を操ったんだろうか?そんな昔に船なんかあったんだろうか?という事を。2000年代に生きる私には627年前に生きる人が船を作ったり、操縦する技術があったなんて信じられない、「できる訳ないじゃん」そんな気持ちだった。

 

 

疑問に取りつかれながら、境内をトロトロ歩く。上空で鳥が舞う。南知多は海だけでなく、空も綺麗だった。

 

 


 

author:1230fan, category:知多半島, 14:03
comments(0), -
名古屋伏見 御園座 生命力あふれる緞帳(どんちょう)

 

2019年 あけましておめでとうございます。

 

写真は、御園座にかかっていた緞帳です。この他にも2つあり、開園前にお披露目があり、写真を撮って良いとの事でした。

その日、私は噺家さんの落語を聞きに、初めて新しくなった御園座に行き、この緞帳を目にしました。写真だと分かりにくいかも知れませんが、この緞帳は緞帳の枠を超えて、干支や金のシャチホコが飛び出してきそうな生命力に溢れていました。

 

ある噺家さんが、落語に入る前の掴みで「名古屋の人はもういっつもシャチホコと名古屋城なんだから、、ふふふ」的に仰いました。それを聞いて、内心「そうだよ、何か?」と思い、一方で「でも、この緞帳の名古屋城と金シャチと干支は他とは全然違って、凄いよ。とっても素晴らしい」と思いました。

 

ホント、生き生きしていて、名古屋人にある内なる闘志のようなものを感じましたね。

 

東京的な洗練や大阪的な面白味とは違う何かがやっぱりここにはあるんだって感じます。1つの価値観で物事を評価すると勝ちや負けとなりますが、違う物差しで見れば、負けの中に素晴らしい魅力があり、勝ちの中に嫌味な部分があり、評価を決めきれないという事になります。今年も色々見て聞いて色々感じたいと思います。

 

 

 

 


 

author:1230fan, category:尾張, 09:13
comments(0), -
岡崎市 矢作神社 新田義貞のうなり石

 

2018年、地元愛知で今まで行った事の無い場所を歩き回ってみようと思ったきっかけは「矢作神社」です。この神社は名古屋から一号線で岡崎に入る矢作橋にある蜂須賀小六と秀吉の石像を左折して少し行ったところを下っていくとあります。私の運転では川沿いの細い道で対向車が来たら、車が川原に落ちそうなので、少し離れた名鉄「矢作橋」駅から歩いて行きました。

6月、私はある歴史教室で「三河武士の源流」というお話を聞き、足利氏が承久の変(1221年)以後、約150年間、三河の守護であった事と矢作宿に館を構えていた事を知りました。そして、その教室でこの「矢作神社」の写真を見ました。

 

矢作神社

 

この神社で新田義貞が足利尊氏との戦い(1336年矢作川の戦い)の前に戦勝祈願したと伝わっています。その時、義貞が戦で勝つ事を予言した「うなり石」もあります。私は写真を見て、

「本当に新田義貞がここに来たの?」と思いました。

その歴史教室では「矢作(やはぎ)」の意味も教えてくれました。「矢を作る」=矢矧だそうです。職人さんがここらに住んでいたから昔は矢矧と呼ばれていたそうで、矢?矢なんて、どこでも作る事ができるのでは?と思っていたら、下の写真も見せられました。

矢竹

 

これは細い竹で「矢竹(やたけ)」と言います。昔、矢作川の中州にいっぱい生えていて、それを刈って、矢を作ったんだそうです。

以前、京都の三十三間堂に行った時、那須与一のご子孫が奉納された矢を見ました。細い矢の矢じりに鳥の羽が差してある立派な矢でした。矢矧(やはぎ)の矧ぎの字の意味はまさに矢竹に羽をつけて矢を作るという意味なんだそうで、本当に「ここに新田義貞は来たんじゃないか」そして、「対岸(八帖側)に足利尊氏がいたんじゃないか?」と思うようになり、私は岡崎市の中世史を読み始めたのです。

 

足利氏が本当に岡崎にいたのか?岡崎のどこにいたのか?なぜ地元では、それが全然知られていないんだろう?

今、岡崎市史 中世 全1167ページ中、320ページにいます。286ページで尊氏の弟が死んでしまってからは、もう尊氏というより側近の話になってしまっています。この岡崎市史 中世で「凄い」と思った部分は本の冒頭です。そこに、一番疑問だった事、「なぜ地元に足利氏の歴史が知られていないのか」が書いてありました。多分、その部分がきっと、これを編纂された先生の一番言いたかった事じゃないかと320ページまでしか読んでいないけれど、そう感じています。

 

あんまり、ここに書いたんじゃ、岡崎市史が売れなくなるといけないんで、少しだけ紹介します。

1812年に豊橋(吉田藩)の藩校時習館に教授としてやってきた太田錦城先生の言葉です。「三河武士。 両度天下を取りたれども、此事世に知れるものなく、まして記載せるものもなし。。。。下野足利郡に足利と云う処はあれども、足利庶流の人は村名1もなし。。」

さて、足利庶流(庶流とは分家のことです)はどこに行ったか? その庶流はどうなっていったか?これを調べると太田錦城先生が言った「三河が両度天下を取った事」が分かります。「そうだったのか」の連続、目からウロコで面白いです。

 

今年、郷土史を読んだら、矢作川が単なる川ではなくて、領地を分ける境界線になっていたようだと感じたので、来年は矢作川をもうちょっと調べます。

ちょっと早いですが、みなさん、良いお年を!

 

入口。右側は矢作川沿いの道路

 

矢作川

矢作川。昔ここに新田義貞が兵を並べたのか?それが知りたい。

 

author:1230fan, category:三河, 23:42
comments(0), -
名古屋 お気に入りのスタミナ味噌煮込みうどん

私は地元で一般的に知られている味噌煮込みうどんのお店しか知らない。どこかの街かどの小さな名店までは知らない、つまらない愛知県民だ。その私が10年位前に知り合いに「美味しい」と教えてもらって以来、時々思い出しては、わざわざ食べに行く味噌煮込みうどんがあった。それは「スタミナ味噌煮込みうどん」だ。めちゃくちゃ柔らかい、ニンニク味噌に漬け込まれていたと思われる牛モツが入っている味噌煮込みで、他に比べて、ニンニクの香りたっぷりのコクのある味噌煮込みうどんだった。

 

久しぶりに伏見に行くついでに「これを食べよう」と思い、事前に店がどこにあるのかを調べて出かけた。店に入ってメニューを見たら、違うスタミナ味噌煮込みの写真があり、「いつものアレが無い」。

もしかして、店を間違えたか?と思った。仕方が無いのでエビ天が入った味噌煮込みうどんにした。

 

 

どうしても「あのスタミナ味噌煮込み」が気になったので、漬物をおかわりした時に女性スタッフの方に聞いた。

「あのぉ、ここのお店って牛モツの入ったスタミナ味噌煮込みがありましたよね?あれって、季節限定ですか?」

「ええ、ありましたよ。でも、あのメニューは販売中止になりました」

「販売中止?? 私、あれが好きだったんですよ。」

「私もあの味噌煮込みが一番好きでした。」とスタッフさんは言った。

「そっか、もう無いのか。残念」と思い、私はエビ天をすすった。食べながら、「白飯を注文しておけば良かったかなぁ。お腹に余裕があったら、残った味噌汁にご飯をぶち込んで食べたかった」と思いつつ、汁も残さず全部平らげた。

 

帰りのレジでマネージャーみたいな女性に、またスタミナ味噌煮込みうどんの話をした。「どうして止めちゃったんですか?」「いつ復活するの?」という食いしん坊の未練がましい訴えだ。彼女は良い人だった。私に「使いたい牛モツがなかなか手に入らなくなってメニューを継続するのが難しくなったんですよ」と教えてくれた。そして、私のまた復活してほしいというお願いを上の人に伝えてくれると言ってくれた。

 

いつかまた食べれるのかなぁと家路に着き、そういえば、今年始めに食べた時の写真がある事を思い出した。

 

いつかまた食べたいなぁ、このスタミナ味噌煮込みうどん。

 

author:1230fan, category:尾張, 21:42
comments(0), -
岡崎 ジャズが時々聞こえてくる教会


 

伺った晩は流星群の降る日で、芯から冷える日だった。日本基督教団岡崎教会の月いちジャズライブ&セッションにやって来た。ここには以前にも一度聞きに来たことがあった。今回は、しばらくぶりにネット検索して12月は特別に金曜夜の開催だと知り、「クリスマスだしなぁ」と雰囲気を味わいにやって来たのだ。

 

 

ライブのセッションホストは実際にジャズの世界で活動をされている方だ。500円支払えば、そういう方々の胸を借りて、自分がステージの中央で演奏できるのだ。今回はボーカル祭りで、出演者は女性が主だった。中には常連の演奏者さんなのか、楽器を持参して、ボーカルの横で演奏に加わる方もおられた。

 

教会で聞いている人の多くは、多分ボーカルさんのご家族さん、自身がボーカルで出られる方、はたまた楽器を持ち込んで演奏に加わる方で、あとは恐らく、まばらに「ただ聞くだけの人」。そんな感じに思えた。

 

以前、土曜午後のセッションを聞きに来た時には、サックスなどの楽器、歌、楽器のような声を出して楽器としてセッションする方がいた会で、「みなさん、いつもは一人で歌ったり、演奏したりしてるから、張り切ってるなぁ」とか「緊張してるなぁ」とか「楽器演奏のノド自慢みたいだ」と楽しかった。

その時たまたま主催者の方と目が遭い「あなたもやってみる?」と声をかけられたが、とんでもないと首をすくめた記憶がある。

 

岡崎はジャズの街だ。

 

 

author:1230fan, category:三河, 22:41
comments(0), -
新城市作手 文殊山城跡でブナの大木に遭遇

 

善福寺の本堂の左手奥の山道をうねうねと歩いて登っていく。道の途中に道案内の「対のお地蔵さん」が一定の距離を置いてなのか、次々現れ、頂上に導いてくれる。お地蔵さんの中には可愛い毛糸帽をかぶせてあるものがあり、誰かが時々お世話しているのだと分かる。町が管理している自然歩道らしく、雑草は自然らしさを残すように刈られていた。そして残すべき自然の樹木の前には「ミツバツツジ」などのような名板があり、森は全体に「あまり人の手が入っていないような感じ」に手入れされていて、自然の中を楽しく歩けるようになっていた。控えでありながら、十分配慮されたお手入れ、行き届いているなぁと感じた。

 

頂きに到着すると案内板があった。広場のようで、「ご自由に」とあるハンモック、物見櫓、昔の仏さん、そしてブナの美しい大木があった。この標高だと今どきの気候ではブナは植生しないので、やはり今よりずっと昔、寒い時代に芽吹いた樹だと思う。豊田市の六所山で見たブナより太いし、枝分かれが多い。一体、樹齢はいくつなんだろう?と思う。

 

やぐらに登り、東西南北の風景を楽しむ。お山がとっても綺麗だった。冷えた空気のせいか、息が抜けるというのか、色々な気持ちが息と一緒に空気に溶けて行くような、そんな気持ちになった。

 


 

author:1230fan, category:三河, 22:19
comments(0), -
新城市作手村(つくでむら) の いいお寺

「自分、いやぁらし〜奴だなぁ」と思った。「この寺は誰にも教えたくない。自分の寺にしておきたい」と悪魔のささやきがあったので、ちょっと迷っていました。でも、お見せします。

風の音がヒュゥ〜〜と聞こえてきて、頭の上から落ち葉がサワァ〜と静かに降ってきて、小さな仏さんの苔むした感じが「ここは、いっつも誰もいないお寺なんだなぁ〜」と分かるような静かなお寺です。

 

<境内の仏さん。無礼ですいません、でも、素敵なんで1枚お願いしますとお願いして取りました>

 

<金輪山 善福寺の山門>

 

<山門を入ると杉並木>

<境内から山門を見下ろすとこんな風>

 

お寺の案内板を見ると、推古天皇時代に「田源山善福寺」の勅号を賜ったとあります。勅号(ちょくごう)とは、朝廷から高僧などに与える称号だそうなので、昔、このお寺の格はきっと高かったのだろうと想像します。

参道や境内に苔の生えた「いい感じの石仏さん」が結構あって、本当は写真を取りたかったのですが、仏さんに「このバチ当たりモン!」と叱られそうだと思ったのでカメラを向けるのを止めました。

バチが怖い小心者なんで、すいません。

帰ってきてから土門拳さんの「古寺巡礼(こじじゅんれい)」を思い出しましたが、ここの仏さんの表情はもうちょっと人懐こい田舎な感じなので、「ふるでら巡礼」って感じですかね。肩に力を入れなくて静けさに浸りたい時は受け入れてくれそうな空気感でした。「いいわ、ここ」前情報無しに連れて来られて好きになっちゃいました。

 

作手(つくで)は、2005年以前は南設楽郡作手村だったのが市町村合併で、今は新城市となります。ここは作手の道の駅から、割合近い所にあります。少人数で来るのが良いかなって思います。

 

 

author:1230fan, category:三河, 22:23
comments(0), -
名古屋 徳川園 維新の頃の尾張藩

次の日曜で「西郷どん」が最終回だ。うちは今回の大河を家族かぶりつきで見入っている。個人的には最近の瑛太の演じる大久保が怖い。頭で勝負する人間にありがちな、一旦相手をやっつけると決めたら容赦が無い、その様が凄すぎると思って見ている。

「西郷どん」では長州征伐にカメラを持参する頼りない尾張藩主として描かれた慶勝公。本当にそんな変な人なのか?と思い、この秋の徳川美術館の江戸学講座で維新の時の尾張藩がどうだったのかを聞いた。

講座で分かった事、それは慶勝公は立派な人だって事。それにこの慶勝公のご兄弟がみんな維新で大変な目に遭っていたって事。

 

 

維新もののドラマで御三家のうち、ふと気づくと、いつも出てこないのは尾張藩。「なんで尾張藩は出てこんのだ!」と思っていたので良い学びになった。

 

江戸学講座、会場一杯になるほど受講者が多い。年配の方が多いが、若い人もいる。中にはびっくりするような人が。侍ラブなのか、自身の頭髪をお侍さんの月代(さかやき)、頭の天辺を剃って、チョンマゲを載せられるようにしている方がいた。それが若い女性で、遠目に見る限りは、その月代はズラじゃないんだ。

「凄いな〜」と感心した。けれど、近づいてマジマジ見る訳にも行かず、気になっていたところ、講座の後、お手洗いでその方とすれ違いざまになった老婦人が「あなたの髪型、素敵ねぇ」って直接彼女に言ったのだ。

 

私は少し引いたところにいた。そして思った。

「おばさま、あっぱれ!なかなか言えないよ、それ。、、、凄い。」

 

author:1230fan, category:尾張, 21:53
comments(0), -