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東西交通の要衝 山中郷 岡崎

山中郷と言ったって、どこなの?って思いますよね。岡崎市史 中世を読み進めるなかで出てきた地名です。鎌倉期には額田郡の地頭の足利氏がここを管轄していたようだし、南北朝時代は幕府の御料所(直轄領)になっていた場所だそうです。本に載っていた地図で、「山中郷は本宿から藤川あたりの事を指すみたいだ」と確認。とりあえず行こうという気になりました。

この山中郷とかつて呼ばれた場所に以前から気になっていた場所が1つだけありました。本宿から1号線で藤川方向に運転する時に道路の左側に見えてくる赤い鳥居と背の高い大木、背後の森、どういう神社かは知らないけれど、目についていた場所でした。で、そこへ行ってみる事にしました。行ってみたら、面白い事にその神社の名前は「山中八幡宮」と言いました。「どんぴしゃ、山中だ!」と思いました。

この看板には家康公が三河一向一揆の時に、この八幡宮の敷地内にある穴に逃げ込んで難を逃れたとあります。私は南北朝時代の事が知りたかったので、家康公とのエピソードかとちょっと残念だったのですが、山中は山中だからヨシとする事にしました。

境内から見た赤い鳥居

大木は大きすぎて写真に収まりません。

この階段をあがって、お社にいきます。

お社は割合新しかったです。

一人で人気のない境内を歩き回って、家康公が一向一揆をやり過ごした穴を探すのが、なんだか怖くて、探さず帰ってきてしまいました。根性なしで、すいません。

 

本によると、この山中郷、山地の狭い谷状のところを街道が北西から南東に通っていて、う回路が無いので、軍勢は常にここを通って移動するしかない場所だったそうで、東西交通(鎌倉と京都間)の重要な場所で軍事的な重要地でもあったとか。そんな理由から南北朝時代の幕府は、この山中郷を御料所(直轄領)にしたのではないか?という事が本に書かれています。

 

う回路が無いなら、尊氏もここを歩いたり、馬に乗ったりして、鎌倉に行ったりしていたのかも知れないなと妄想してます。

 

 

 

author:1230fan, category:三河, 22:33
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