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鬼師 高浜市かわら美術館へGO!

今日は友人達と昼食を取った後、高浜市にある「かわら美術館」へ行った。高浜は鬼瓦で有名な町だ。鬼瓦を作る職人さんの事を「鬼師」と言うそうだ。とっても恰好良い名前、肩書だと思う。

館内の2階に企画展、3階に常設展示があった。企画展では「手鏡帖と鬼師展」が開催されており、鬼師さんの作品が並べられていた。手鑑帖というのは鬼師が鬼瓦や作品を作る時に参考にする図録のようなものだ。

魚が正確に描写されている

何人もの鬼師の作品が並べられていたうち、私が一番気に入ったのは梶川俊一郎さんの作品「飛天」だった。

天女が笙を吹いている

あと目から鱗だったのは、狛犬だ。

向かって右の口を開けている方が獅子。左の閉じている方が狛犬だそうだ。

私にとって、神社の1対の狛犬は、どちらも狛犬だったので、この美術館の解説で「獅子」と「狛犬」の違いがある事を知って驚いた。それに「狛犬」も、そもそも朝鮮半島の高麗(こうらい)から伝わったので異国の犬を「高麗犬(こまいぬ)」と呼ぶところから来ているとあった。知らんかったなぁと思った。

常設展示の中の唐草模様の瓦

3階の常設展は「瓦」。中国のすごく古い瓦や日本の天平時代の瓦だとかが展示してある。本当に古い時代から、動物だったり、文字だったり、柄だったり、人は美しい表現を見つけたり、想像上の魔除けの動物を考え出したりして作品にしてきた事を知った。鳳凰とか、龍とか、一体何から、そういう存在を想像できたんだろう?とっても不思議だ。

author:1230fan, category:三河, 00:26
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常滑焼まつりへGO! 常滑市

10月になって、少しは涼しくなってきた。それから、少しだけコロナ禍が落着き、GoToトラベルで旅に出ようと考えている人から話を聞く機会が増えた。なんでも、県内の近場の、小さいけれど普段は手が出ないような高額の宿泊施設は、すでに年内の土日は予約でいっぱいだと聞いた。そんな話を聞くと、みんな、表向きには従順にコロナ禍の中で行動制限をきちんとやっているようで、一方、楽しんで良いとされたら、密かに目いっぱい楽しもうとしているみたいだ。健全な事だと思う。

さて、今日はたまたま常滑にやってきた。常滑の友達が「せっかくだから、常滑焼まつりに行こうよ」と誘ってくれたので、お祭り会場の一つであるセラモールという場所にやってきた。もちろん、マスクは着用している。ここは地元の焼き物を普段から販売している場所だそうだ。

そこそこ人はいる

駐車場は満車だった

焼き物の店が並んでいる

 

お店を見て回り、手ごろなお皿や鉢を見つけたが、なにせ急に行こうと言われたので、財布の中に2000円しか無かった。最初に露店のイカの姿焼きを買ってしまったせいで、残り1500円。これで、何が買える。。で、カードで買おうと思ったら、カード払いを受け付けない店もあり、結局、焼き物は買えなかった。せっかくだから、1つ位と思っていたので、残念だ。

このお祭りは10月11日までだそうだから、もう1回行こうと思う。

 

author:1230fan, category:知多半島, 00:11
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丈山の里の丈山苑に行ってきた。 安城市

安城市和泉町にある「丈山苑」に行ってきた。住宅街の一角に美しい庭園と書院がある場所。本当は紅葉が綺麗な時期が訪ねるには一番良いんじゃないかとは思ったが、友達と西尾かき氷を食べに行く前に時間的に余裕があり、とんでもない暑さの中、丈山苑に立ち寄ることにした。

駐車場から丈山苑の門までの道

なんでも、この丈山苑は地元の風流人、石川丈山の美意識を表現した本格的な和風庭園と書院を配した施設だそうだ。入場料は100円。とってもお得だ。この石川丈山は江戸時代初期の人で交流のあった人も当時の文化人が多いようだ。なんでも終の棲み処として建てた京都の詩仙堂がとっても有名らしい。石川丈山を紹介するチラシを見ると、江戸時代初期の人なのに身長が190センチもあった大男で、生涯独身で90歳まで生きたんだそうだ。武人であり、漢詩人であり、茶人であり、書家、その上、作庭家だそうだ。とんでもないマルチ。

丈山の像

お庭にあった丈山の像を見ると、身長190センチとは思えないけれど、本当に190センチもあったなら、バスケの八村か、俳優の阿部ヒロシか、プロレスのジャイアント馬場くらいをイメージしてしまう。

お庭

お庭

書院には、若いカップルやちょっと年季の入ったカップルが数組いて、意外に流行っているではないかと思ってしまった。その日はとても暑く、かき氷日和だったが、受付の人に勧められたので「くずきり」を頂いた。美味しかった。

丈山苑の後、目当ての西尾かき氷のお店に行ったら、1時間半ほど待ったのにまだ順番が回ってこず、そこでのかき氷は諦めた。帰路、「やっぱり、かき氷でしょ」とコメダ珈琲店に入ったが、注文を取りにきた店員さんが開口一番「今日はかき氷は売り切れです」と言ったので、思わず「うそぉ〜」と言ってしまった。その日は、結局、かき氷にはありつけなかった。

 

author:1230fan, category:西三河, 23:43
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小牧山に登る 小牧市

小牧山に行ってきた。

去年の夏の終わりに小牧に初めて行き、その時は夏祭りを見た。ゲストにラッキー池田が来ていたんだ。去年のその時、「街なかに山がある!変なの」と思ったその山が小牧山だった。

いつもの如く、なんとなく「明日の朝は小牧山に行こう」と思い、カーナビ君任せだ。

石柱の張り紙は「コロナ関連の案内」

小牧山の駐車場の1つが閉鎖されていたので、私は北駐車場に車を停めた。到着するまで漠然と小牧山山頂まで車で行けると思い込んでいたので、駐車場に車を停め、「この暑い中、歩くの?うへぇ〜」という気持ちになったが仕方ない。歩き出した。

上の解説に隣接した木立

木立を通り抜けて、山への登り口を上がって行く。驚いたのは、山道だ。舗装が無かった。ちゃんとしたウォーキングシューズとか、トレッキングシューズがあった方が良かったが、私の靴は町歩き用だった。

道が。。。

資料館前い

そんなに歩き時間(10分〜15分位)は長くなかったが、汗だくになった。まだ朝早い時間で、道では地元の方にすれ違ったりした。山頂の資料館にはクーラーが無く、扇風器だけだった。資料館の最上階は展望室。四方の戸が開けられ、涼しい風が吹いていた。そこにはガイドさんがいて、小牧山から見える風景の案内や信長、秀吉、家康の天下取りの話をしてくれた。

小牧山から見える県営名古屋空港

本当に広々した平野にでべそみたいにポコンと小牧山がある事が展望室に立つとよく分かった。今みたいに眼下にビルなんか無かった時代、小牧山から四方に広がる平野を見下ろしたら、「天下を取っちゃうって、こういう事?気分いいじゃん」なんて思うわなぁ〜なんて思った。まっ、信長はこんな軽くは無いだろうと思うけど。

author:1230fan, category:尾張, 12:33
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日本武尊つながりで氷上姉子神社 名古屋市緑区

先日、内々神社に行って日本武尊(やまとたけるのみこと)が神話の人じゃないんじゃないか?と妄想した事をきっかけに、「じゃあ、そのつながりで行く場所を決めよう」と思い、名古屋市緑区大高にある氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)に行くこととした。

ここに祀られている御祭神は、宮簀媛命(みやすひめのみこと)。内々神社で知った尾張氏の建稲種命(たけいなだねのみこと)の妹さんだそうだ。日本武尊から草薙神剣を預かって、尊が亡くなってからも剣をお守りになって、最後は熱田神宮に預けられたんだそうだ。

通りに面した鳥居。ここから入っていくと駐車場がある

いつものようにカーナビ任せでやって来たが、交通量が多い23号線にとても近く、境内には車の通り過ぎる音がゴウゴウと聞こえてくる。

空気は澄んでいる感じ

なんでも持統天皇の時代(690年)に、火上山(ひかみやま)のふもとの現在の場所にお社が移されたそうだ。旧社地(火上山山頂近くで、宮簀媛命のお父さんオトヨノミコトの館跡)には元宮が祀られているんだそうだ。元宮は帰りに分かった事だが、駐車場の入口の鳥居(道路の左手側)の対面、道路の右手方向に石柱があって「元宮」と示されていた。どうやら鬱蒼とした森を行き、小高い山の上の方に思えたので、行くにしても涼しい秋にしようと思った。それにしても、、だ、やっぱり、神話の人じゃない気がするなぁとまた思った。

拝殿

境内に氷上姉子神社の案内板があり、その隣にいつか見た信長攻路のプレートもあった。

信長プレートがあったので、ここに信長が立ち寄ったのか?と思い、後で「信長攻路」のマップを見たところ、信長が桶狭間に向かう途中に立ち寄った場所ではないと書いてあった。なんだ、そうかがっかりとちょっと思った。

 

author:1230fan, category:尾張, 01:28
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内々神社(うつつじんじゃ) 春日井市

志段味古墳ミュージアムにまた行った帰りに春日井市にある「内々神社(うつつじんじゃ)」に寄ってみることにした。カーナビに頼って行く。初めての一般道路を運転。岐阜県多治見市に向かって走らせる。道路はなんだか新しく、緩やかな上り坂を登って行くような感じだった。多治見まであと数キロという標識を見て初めて「春日井市って岐阜県に接する愛知県なんだ」と分かった。

内々神社は、その緩やかな登り坂の一般道を脇道に出て、細い道で森の中を下っていった先にあった。

立派です。

日本武尊(やまとたけるのみこと)とご縁のある神社

多治見に向かう道路の新しさと細い道で森の中を下り下りて出てくる このお社とでは全然違う世界だった。私はちっともスピリチュアル系では無いのに、なぜか、この神社には不思議な雰囲気があるような気がして、ドキドキした。この神社は、案内板によると日本武尊が東征の帰りにここに到着した時に、別隊で駿河にいた副将軍・尾張氏の建稲種命(たけいねたねのみこと)が水死した事を知り、「うつつかな、うつつかな」と嘆き、その霊を祀ったのが、「内々(内津)神社=うつつじんじゃ」の始まりだそうだ。

志段味古墳ミュージアムのセミナーで古墳時代の頃は、庄内川の水運が盛んで、庄内川のあるポイントから陸路で内津峠(うつつとうげ)を通って岐阜の方に上っていく道があったと聞いたばかりだったので、私は本当に日本武尊(やまとたけるのみこと)が、ここに来られても、変じゃないような気になった。神話の中の登場人物から、「ほんとにおったかも知れない人間」に格上げだ。

拝殿

拝殿の裏のお庭・夢窓国師のお庭と言われている

訪ねた日は日曜だった。神社にいた方はおそらく地元の方だと思う。「お庭がどこにありますか?」と尋ね、御朱印をお願いしたら、「無理にとは言わないけれど、良かったらコロナ退散のご祈祷をしたアマビエのお札はどうか?」と言われた。「おいくらですか?」と聞いたら、「無料ですよ」と言われた。御朱印もお金は要らないと言われた。どっちも無料なんて、そんな神社あるのか?とぶったまげた。神社の方はいかにも人が良い地元の人って感じで、ただで貰うなんて悪いなぁと私は思った。人がお金を受け取らないので、神様に気持ちを受け取って頂くこととした。いつものお賽銭に少し嬉しい気持ちを乗せて、納めさせて頂いた。

 

お庭で、カワセミを見た。一瞬の事だったけれど、本当に羽の瑠璃色は綺麗だった。色々嬉しいサプライズがあったから、という訳じゃない、このお社には、なんだか また訪ねたい空気感があった。

 

author:1230fan, category:尾張, 23:36
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正法寺古墳と西尾かき氷

吉良饗庭しおの里は吉良の歴史資料館も兼ねている。展示品は「塩作りの歴史」や「伝統的な塩作りの紹介」以外には、古墳と土器の紹介が目玉だった。この施設のすぐ近くに4世紀末から5世紀初め頃の前方後円墳で、三河最大の正法寺古墳があった。しおの里のスタッフさんが行ってみる事を勧めてくれたので、看板を見ながら行ってみた。古墳の案内板は信号機近くにあった。だが、古墳に近づいていくほど、古墳を見るための駐車場がどこなのか?の案内は無かったので、近くの公民館の駐車場に車を停めさせてもらった。駐車場を出て、お寺を横切り、公園の坂を上がっていった。

奥のこんもりした所が古墳

坂を上がっていくと、柵があり、それ以上先には進めないようにしてあった。

案内  私達の立ち位置は古墳のウエスト辺りだ。

資料館の展示

志段味古墳ミュージアムで見た今から1400年位前の地図だと海岸線が今よりずっと上がっていたから、「きっと、この古墳は、海を真下に眺められるような場所に建てたんじゃないか?」と妄想した。一緒に行った友達も同じ妄想をしながら、今は田んぼになっている所を青い海のつもりで風景を眺めた。

その後、私たちは「西尾かき氷」を食べに行った。お茶屋さんの「あいや」さんが経営されている西条園に行き、順番を待った。

西尾だから、やっぱり抹茶でしょう。

西尾は抹茶が特産品だ。だから抹茶のエスプーマというのが乗っかった、かき氷にした。エスプーマは人生初だった。てっきり抹茶のソフトクリームだと思っていたので、食べたらソフトクリームじゃなかった。なんでも抹茶とクリームみたいなものを滅茶苦茶泡立てるとこういう風になるらしい。味は「かなり抹茶」。そんなに甘くない、大人の味だった。

岡崎のかき氷街道がスタンプを8つ集めなければならないのに比べると、西尾のスタンプラリーは3つだけだ。これなら、できるかもと思わせるお手軽感はあった。

9月30日までなので、また機会をみつけて西尾に行こうかと思う。

author:1230fan, category:三河, 23:38
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大人が楽しい塩焼き体験 西尾市吉良

友達を誘って、西尾市にある吉良饗庭(きらあいば)塩の里に行った。コロナのおかげで塩田での塩づくり体験は休止中だったので、屋内で「かん水(濃い塩水)」を煮詰めて、塩を作るという事を体験してきた。1回200円。とってもリーズナブル。

屋外の塩田の紹介板

屋外に塩田、その奥に塩焼き小屋がある

歴史民俗資料館も兼ねる

この「吉良饗庭塩の里(きらあいばじおの里)」のパンフだけを見ていた時には、この体験館は真新しい施設だと思い込んでいた。だから、実際にこの建物を目にした時には驚いた。なぜなら、この施設までの道は、よく知っていた道だったからだ。魚釣りをしに吉良のワイキキビーチに行く時に通ってきた道。こんな所に、こんな施設が、いつの間に、と、びっくりした。

昔の塩田作業の時の道具

塩田作業の道具を見ながら、「砂を広げたり、かき集めたりは砂が重たい上に炎天下で暑いだろうから、とんでもない重労働だよね」と友人らと言い合った。この塩田を止めるきっかけは台風で、設備をこてんぱんにやられてしまったせいで、止めざるを得ない事になったようだった。

塩の花

お土産用の塩

自分が焼いたお塩はもちろん持ち帰る事ができるが、お土産用としても頂ける。塩角が無いまろやかなお塩だった。なんでも、塩焼きで塩の花がフツフツと沸いてきたら、少し水分があるうちに火を止めるのが饗庭塩の作り方の特徴だそうだ。最後に残る水分は、にがりで、これを紙などに染み込ませて取り去る事で塩角の少ない塩にするのだそうだ。

塩の結晶オブジェ

理科の先生をしている友達が大きな塩の結晶やオブジェに、やたらと関心を示していた。できるものなら、生徒を連れてきて、見せてやりたいと言っていた。

私の思っていた事は彼女とは、まるっきり違う。「早く自分の塩で塩むすびを作って、食べたい」だ。今は、早く塩が乾燥しないかなぁと塩の様子を見守っている。

 

 

 

author:1230fan, category:三河, 00:48
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蓮を見に愛西市へGO

行った事がない場所で蓮を見ようと思い、愛西市に向かった。愛西市はレンコンの産地であり、蓮は「愛西市の市の花」でもあるそうだ。そんな訳で、「ハス田」と呼ばれる風景を見に行った。行先は道の駅「立田ふれあいの里」。この「立田ふれあいの里」の駐車場に車を停めて、敷地の商工会議所の建物の後ろに流れる鵜戸川の向こうに広がる「森川花はす田」を見に行った。

こんな感じでカメラマンがいる

今までため池の蓮は見たことがあったが、田んぼに蓮が生えているところは初めて見た。なんというのか、ワイルドフラワーって感じで良いなぁと思う。

もわもわ

蓮の花は午前中に開花して、午後には閉じるらしい

ピンク

実は「ふれあいの里」に着いてすぐ、私は間違った方向(逆)に歩いていった。そこにも、はす田はあったし、車も1台停まっていた。だから、近づいて行ったのだが、そのはす田は近づいてよく見ると、花が全然見えなかった。「花が見えない」というので自分の間違いに気づいて私は引っ返してきた。

白い蓮

葉っぱが大きいんだ、これが。

子供の頃に見たアニメーションで森の妖精が雨除けに差していた葉っぱの傘は、蓮の葉っぱだったかなという位大きい。帰りに道の駅で特産品の「レンコン」を買っていこうと思ったら、箱に「ハウス栽培」とあった。レンコンにもハウス栽培があるとは、ちっとも知らなかったと思った。

author:1230fan, category:尾張, 00:10
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津島線に乗って甚目寺観音へ あま市

甚目寺観音の南大門が鎌倉時代のものだと知って、甚目寺観音に行ってみる事にした。電車で「庄内川」を渡り、津島に行った時と同じ名鉄津島線で「甚目寺(じもくじ)駅」に向かった。この沿線は、信長とその仲間を思い起こさせる尾張の古い町が多いのかな?と思ったりする。

 

甚目寺駅に初めて降りた。町中の小さな駅。駅から徒歩5分くらい。甚目寺観音までの町並みは昭和な感じだった。

最初に目にするのは東門。これは江戸時代の建築だった。東門の左側に目当ての南大門が見えた。「見たかったのは、これだ」と近づいてゆく。

南大門

南大門の前にあった道しるべ。「右 つしま」とある

解説

福島正則が寄進した仁王像

甚目寺観音の伽藍の配置を見ながら、荒子観音と似てるなぁと感じる。あそこは、前田利家の地元だった。ここは、福島正則の地元なのか?甚目寺駅を津島方向に1つ進んだところに「七宝(しっぽう)駅」があるが、七宝駅の近くに前田利家の妻となった「まつ」の生誕の地がある。信長チーム勢ぞろい的な場所で面白い。

甚目寺観音本堂

三重塔 (江戸時代建立)

解説

この前、志段味古墳ミュージアムに行って、古代の庄内川沿いに人が住んでいて、移動に船を使ったと知った。1400年前の地図では、この津島線辺りの場所は海の中にあったり、海に面していた場所ばかりだったように記憶している。

で、また妄想してしまうんだ。古代とか中世は、きっと水上交通の要所に人が多く集まっていたんじゃないか?って。そういう場所がきっと今でいう都会で、豊かな人が比較的多く集まったり、そういう人に近づきたい人が比較的自由に行きかっていたんじゃないのかな?って。信長とその仲間は、そういう場所に出入りした若者だからこそ、何かの刺激を受けて、自分でも何かできると思ったんじゃないのかな??なんて、色々妄想中。

 

三河出身の私の目に、国府宮とか、津島、甚目寺、荒子の雰囲気がなんとなく似ているように見えるのは、やっぱ違いの分からない三河人のせいかも知れない。もうちょっと尾張を歩き回って、違いの分かる三河人になりたいと思う。

 

 

 

author:1230fan, category:尾張, 00:16
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