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長興寺の信長に会えた

今年の初め、私は豊田市の長興寺に行き、「この寺に、あの信長の肖像画が贈られ、一周忌法要がされたんだ。いつか本物の信長の肖像画が見たいなぁ」なんて思っていた。

そしたらば、意外に早くその機会がやってきた。豊田市美術館はしばらく改修工事で閉まっていたのが、この6月からリニューアルオープンした。そのリニューアル記念に長興寺の信長像の掛け軸が公開されたのだ。

「行くしか無いでしょ」

その日、駐車場はやたらと混んでいた。こんなに車があるなんて、みんな本当に行先は美術館ですか?と思ったほどだった。館内はまあまあ人がいたが、展示物が人ゴミで見られないという事は全然なかった。

結構車が入っていると思う

これが長興寺の信長。みんなが知っている筈

 

この掛け軸の公開は6月16日(日)まで。リニューアル記念と言っても、入場料は大人300円で超お手ごろだ。色々な作品はあったが、私の目当ては長興寺の「紙本著色織田信長像」だったので、信長の前を行ったり来たり、多分5回くらいはケースに鼻をひっつけて見ていたと思う。掛け軸の絵の下の漢文をじっと読む。その漢文は私でも読めるほどの内容で、奉納者の与語さんの名前があった。豊田市郷土資料館で聞いた通りだと思った。私の年始の希望はこれで叶えられたって訳だ。やったー!

美術館のレストランは経営する会社が変わったらしく、メニューは少し変わっていた。しかし、眺めは相変わらず良い。

author:1230fan, category:西三河, 00:05
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矢作川の下流と言ったら河口だわねー碧南たんトピア

矢作橋より南の矢作川下流!!「それならば、海に出る河口を狙えば良い」と思い、グーグルマップで矢作川の下流を見ることができそうな場所を指で追った。河原には大抵遊歩道は無い。車で川に近寄りたくても、駐車場も無いことが多いから、河口そばの車の置ける施設を探す。そうしたところ、地図に「へきなんたんトピア」という名称が出てきた。ネット検索すると碧南火力発電所近くにあるお庭や発電所を学ぶ施設との事。料金無料。これならば、タダで矢作川に近づける、もしくは海にそそぐ矢作川を見られるかもと期待し、出かけた。

 

行ってみて、驚いた。この「たんトピア」の近くには何度か行った事があったのだ。でも、これまで一度として、ここに「たんとピア」という施設がある事に気づいた事はなかった。だから、「あまり宣伝していないのじゃないの?」とか、「誰もいないような場所じゃないのかな?」と不安に思いながら、駐車場に入ってみると、意外に車は入っていた。

 

敷地に電力館とヒーリングガーデンがあり、「矢作川を見るには、きっとガーデンの展望台だろう」と思って、ガーデンに入っていった。すると、また驚いた。だって、想像もしていなかった、とんでもなく立派なお庭が眼前にガンと広がったから。

「ここはハワイのゴルフ場か?」と驚く

これは、とんでもない拾いもんだと大喜びだ。ガーデンの高台から、火力発電所が間近に見える。空がとても広い。

ガーデン入口のグリーンセンターに置いてあったチラシを見ると時々発電所探検ツアーが企画されているようだ。次は7月らしい。それに参加したいと思いつつ、「いやいや今は矢作川河口だ」とお庭を歩いてみた。

「ここは北海道か?」

またまた驚く。庭がいいじゃないか!北海道の「風のガーデン」チックなお庭があって、素敵だなぁと思いつつ、セコセコと矢作川の河口はどこかと嗅ぎまわってみたが、広すぎて、時間切れになった。たぶん、矢作川に一番近づける場所は「エコパーク」の先の先にある「半地下観察舎」だろうと想像するが、そこから本当に矢作川が見えるかどうかは分からない。次、行って確認することとする。

エコパークに行くための歩道橋から取った写真。造成している先にある海は知多湾だろうと思う。

 

 

author:1230fan, category:三河, 22:12
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旭高原自然遊歩道から矢作ダム湖チラリ

豊田市の岐阜県との境にある旭地区。春に枝垂れ桃を見に行った同じ地区の高原に行った。本当は遠いので車で行きたくなかったが、自分で運転するより仕方が無かった。高原は遠かった。けれど、意外なほど、人がいた。仲間でバーベキューという人がいたのだ。その日、私は自然観察会にいた。遊歩道の木々の間から矢作ダム湖を見た。話によると、その何日か前に雨が降ったので、水がたまったらしい。初めて矢作のダム湖を見た。なかなか良い眺めだった。

旭高原に行く途中、岡崎よりも上流にある豊田市の勘八狭(平戸橋あたり)を通った。そこで矢作川を堰き止めている。だから、岡崎の矢作橋で見るような干上がった矢作川とはまるで違う風景が目に入ってきた。

この風景を見た時、「ここはなんだ?」「こんなに水の豊かな場所があるなんて」と驚き、最初は矢作川だなんて思わなかった。静かにボート競技の練習なんかしている人がいるのを目にした時には、今度通る時には車を止めて、しばらく見ていたいと思った。なかなか素敵な風景なんだ。

これが私がよく目にする岡崎矢作橋あたりの矢作川だ。勘八狭と全然違って、生活感ありありだ。上流で堰き止めているから、こうなってしまうのは仕方ないけど、なんだなぁ〜だ。この岡崎よりもっと下流の矢作川がどうなっているのか、そのうち見に行ってみようかなとちょっと思う。

author:1230fan, category:三河, 22:02
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東海市 大池公園 はなしょうぶ祭り

5月の終わりから暑い、暑い。先日、刈谷のカキツバタを見て、安城の里町菖蒲池の「花の瀧」ってこんな感じかなぁと想像したのだが、「やっぱり、菖蒲は菖蒲だから、菖蒲も見ておこう」と思い、はなしょうぶ祭りをやっている東海市の大池公園にやってきた。色々調べると「カキツバタ」と「菖蒲」と「花菖蒲」はどうやら夫々違うらしいが、良しとする。大池公園には、以前にも何かの機会に来たことがあり、広々した気持ちの良い公園だという事だけ記憶している。

こんな木陰の歩道を池に向かっておりていく。

池は大池というだけあって、大きい。数名の釣り師がいる。

日差しが強かったので日傘を差して歩いている人あり

花菖蒲は、日傘の人が行く先の森に入っていった先にあった。結構な株数の花があった。とても美しく管理されていて、お花は大きい。カキツバタが町娘なら、花菖蒲は花魁という感じの差がある。

 

昔、我が家の前の田んぼは、段々になっていて、上の田んぼの水が田んぼの隅から、下の段の田んぼにチョロチョロ流れ落ちていた。祖母がそのいつも湿った隅にいつのまにか、菖蒲を植えていて、5月から6月頃に紫色の花を咲かせていたのを思い出す。当時は祖母が菖蒲をあらかじめ植えていたとは気づかなかった。そこに当たり前に咲く花なんだと思っていた。

段差のある場所にもし菖蒲がたくさん咲いていたら、確かに花の瀧にも見えただろうと想像する。

 

author:1230fan, category:尾張, 00:39
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今週末は有松絞り祭り

早いなぁ。もうすぐ6月になる。6月の最初の土日と聞くと、熱田神宮の「熱田まつり」か、有松絞り祭りかを思う。以前、機織りが趣味の四国の友人ができた時、「愛知と言ったら、有松絞り祭りだよね」と言われた事があった。私は愛知県人だが、そう言われるまで「有松絞り祭りなんて祭りがある事」を知らなかった。で、その友人が「いつか有松絞り祭りを見たいから、偵察しておくよう」言ったので、私は4年前初めて有松絞り祭りを見に行った。行ってみて、驚いた。すごい人だ。そして、こんなに大勢、絞りを着た人間が街を行き交うのを見たことが無いくらい、「絞りを着た人間が、うじゃうじゃいた」のを見た。

いつか四国の友人を案内するんだという任務を与えられた私は、「有松の街案内ツアー」に参加し、あないびとの会のガイドさんについて、街を巡り、昔の東海道を歩いたりもした。

これ、昔の東海道。道幅は広くない。

立派な老舗の絞り屋さんにも「ここぞ」とばかり、入らせて頂いて、素敵な絞りを間近にたくさん見た。お店の人が言うには、「くくりをやれる職人さんが年々減っているので、絞りの値段は上がっていくんだ」との事。昔、私の祖母も内職で、くくりをやっていた。子供の頃、祖母のくくりを傍で見ていて、「やってみるか」と言われ、1つか2つ、私もくくった事はあった。だから一応、くくりは、知っている。

 

偵察の翌年の有松絞祭りに四国の友人がやってきた。そして、大はしゃぎで、町中の「しぼりを着た人」を目で追っていた。

そして、気になる絞りを着た見ず知らずの若い女の子に、いきなり声をかけていた。

「その絞り、素敵ねぇ。どこで買ったの?」と。

その子は「これ、おばあちゃんの着ていた絞りなんです」と答えた。

友人は「やっぱり、そうかぁ。最近は見ないような大胆な柄なのよね。それ、素敵よぉぉ」

若い女の子は恥ずかしそうに、はにかんでいた。

こんな感じで、友人はあっちこっちに声を駆け回り、絞りの布きれをいくつも買って、四国に帰っていった。

令和元年の有松絞り祭りは6月1日と2日だ。きっと、今年も「普段はタンスにしまってある自分の絞り」を張り切って着て、有松の町に繰り出す人も多いだろうと思う。

author:1230fan, category:尾張, 22:40
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矢作川を歩く 岡崎 八丁味噌蔵からスタート

歴史教室の仲間と矢作川を歩いた。私は少しばかりだが、岡崎市史を読んで、矢作川をはさんで足利氏が守護した時代の矢作宿が東と西にある筈だとか、矢作川から中世時代の墓石が出てきたとか、矢作川でも天神橋あたりから縄文時代の埋設林が出てきたとか、そういう事は知っていた。今日は歩くことで何が分かるのだろうと楽しみにやってきた。

落ち合ったのは中岡崎の駅だった。ここから、八丁味噌屋のカクキューさんとまるやさんの間の道を通って、矢作橋を通り、矢作川の河原に降りるというコースを歩いた。

この道、江戸時代の東海道だ。

左にまるや八丁味噌、反対側の黒い建物がカクキュー

思ったより、東海道の道幅は狭い。

まるや八丁味噌とカクキューの向かい合う道が昔の東海道だ。まっすぐ行くと突き当りに石の道案内がある。突き当りを右に行くと京都に行くと書いてあった。この道をまっすぐ行っても矢作川なのに、右に直角に折れる道になっている。この直角に曲がるのが岡崎の27曲がりというもので、城を守るためのわざとそう設計されているそうだ。

矢作橋から取った写真。階段のある位置が昔の東海道の位置らしい

歴史教室の先輩方は歴史好きが多いので、色々知っている。だから、私はいつも彼らの会話を聞いている。この時に「え?そうだったの?」と驚いたことは、橋は江戸時代頃にかけられて、それ以前の時代に無かったらしいという話。「それ以前の時代は、足を濡らして歩いて渡っていたんですか?」と思わず尋ねると、「川船で渡っていたと思うよ」と言う。地名に「とば」とあるような場所は昔は「わたるばと書いて渡場(とば)」だった可能性が高く、そこから船に乗って、水辺を渡ったらしいと言っていた。

線路に名鉄電車

矢作川に降りると、石がごろごろ

昔は矢作川の川底の砂を掘って、建設現場に持っていったそうだが、もう掘りすぎてしまって、今はそういう事をしてはいけないんだそうだ。この矢作川の河原を散歩中に奈良時代の甕を拾った人がいると聞き、自分も何か拾えないかと目を凝らす。すると、石ではない何かがあったので、拾って、先生に差し出した。すると先生は「それは、きっと鎌倉時代の食器の破片だ」と言った。「やった」と喜んでいると、隣の仲間が茶色の土器を拾って、先生に差し出した。すると、「それは、昔のおしっこを溜めた甕の1部だ」と先生は笑いながら言った。ほんとか?先生の判断の速さに、「それは、あてずっぽうで適当に違いない」と笑ってしまった。

これは、矢作川の拡張工事の時に矢作川から出てきた中世の墓石だ。あるお寺に保管されている。現代の機械で切ってサンドペーパーで表面つるつるにした墓石に比べて、柔らかい感じで良いなぁと思った。そのあるお寺のご高齢のご住職は、一体どうしてそんな事を知っているのか?という位、昔、地元ではこう言われていたという話を知っていた。一番驚いた言い伝えは、「岡崎の大門はどうして大門というのか?」と仲間が聞いた時の答えだった。「大門はなぁ、昔は北野廃寺の寺領の中にあった大門がそこにあったから大門と言われている」だって。今、北野廃寺のあった場所と大門の間には矢作川が流れている。先生が「太平記にある大門の位置は矢作川の西になっている」と言う。今は東側に大門がある。尊氏の時代の矢作川は今とは違う流れ方のようなんだ。どうなっていたんだろ、興味は尽きない。

 

author:1230fan, category:三河, 21:33
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西尾市 みそぱーくで味噌汁を二杯飲む

西尾市に「はと屋」さんという蔵元さんがある。そこは味噌料理・自然食ビュッフェ「伝」をやっておられ、たまにランチを食べに行く。冬は黒い味噌おでんに並んで、はと屋さんの白しょうゆベースの透明なおでんがあって、白黒おでんの両方が楽しめる。

去年のお正月の頃に伺った時、食事後、お店の外にある売店に向かって歩いていった。資料室という小さな建物が売店の前にあり、中にかけてあった絵や写真などを見ていた。そうしたところ、びっくりなものを見つけた。それは、ご先祖様が三河の代官だったというパネルだった。その肖像画、実は見たことがあった。

上の写真は豊田市の歴史を割合手頃な量の資料で紹介した本だ。この本の中に「はと屋さんのご先祖」が出てくる。本の193ページ「三河代官鳥山精元(きよもと)」がご先祖様だ。1666年に、この鳥山代官は三河代官になった。昔、挙母と呼ばれた豊田市の治政に尽力された人物として紹介されている。具体的には矢作川の洪水で挙母村が被害を受けるのを防ぐための堤防を築いたり、遊水池を造って堤防の決壊や城下への入水を防いだりしたそうだ。その堤防はかつて「精元堤」と呼ばれ、今でも豊田市の久澄橋から北に進んだところにあるそうだ。ちなみに、豊田市郷土資料館でも鳥山代官は紹介されており、功績がたたえられていた。

そんな訳で、自分が見知った地元の歴史上の人物が、このお味噌屋さんのご先祖さんだった事を不意に知って、ホントに驚いた。

 

このお店はバイキングなので、お味噌に関係ないメニューもある。けれど、行くと、どうしてもお味噌汁を飲む。そして、「やっぱり、うちで作るより、味噌屋の味噌汁はうまい」と思って、おかわりをする。味噌汁2杯飲んでも未練はあるが、「きりがない」と思って、それで満足して帰ってくるという事をいつもやってしまう。

 

ちなみに、ここの味噌は、八丁味噌じゃない。ご先祖様が三河の名代官だった、西尾のはと屋の赤味噌だ。

author:1230fan, category:三河, 22:26
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安城市里町の花の瀧と刈谷市井ヶ谷のカキツバタ

家康公よりも前の、足利氏が三河の岡崎にいた頃はどんなだっただろう、時代を辿りたいものだと思って、安城市里町にある「鎌倉街道」の記念碑を見に行った。そこは里町菖蒲池という場所で、見渡す限り田んぼ(もしかしたら麦畑かも)。田んぼと田んぼの間の車道に面して、ポツンと案内板と石仏と「花の瀧伝承地」と刻まれた石があった。記念碑の背後にある木は、ここに誰も来ない事を良い事に鳥達の宿り木になっていた。私が車を停めて、記念碑を読もうとしたところ、鳥はざっと飛んでいった。由来記という石に彫られた文字は塗装がはげおちており、字が石に同化して全く読めなかった。

写真の左側の先のとんがった石に「花の瀧伝承地 鎌倉街道」とあった。ここは1666年の「名所方角抄」に八橋八景の1つとして紹介されていた場所らしい。それに、なんでも新古今和歌集の慈円(1155年〜1225年)の「風わたる 花をみかはの 八橋の くもでにかかる 滝のしらいと」という歌はこの花の瀧を読んだ歌だと伝承されているそうだ。江戸時代はともかく、慈円は鎌倉時代前期の人な訳で、ホントにこの花の瀧を詠んだの?と疑ってしまうけれど、「慈円もここに来た」って事にする。

さて、菖蒲池だから、花の瀧の花は菖蒲なのだろうけれど、ここら辺(知立、安城、刈谷)は、「かきつばた」が有名なんだ。だから、菖蒲の代わりにカキツバタで花の瀧を想像しようと思って、刈谷市井ヶ谷の天然記念物「小堤西池のカキツバタ群落」に行く。

見渡す限りのカキツバタ

 

これだけ広い場所に目いっぱいのカキツバタ。

今日はじめて、この群落を見て、カキツバタのこの緑色の原と原の間を昔の装束を身に着けた貴族や武士や坊さんが草鞋をはいて歩いていく様子を妄想できた。うれしかった。

 

ここのカキツバタの原は自然のまんま、近くの森から流れくる水と雨水で生きている。肥料は与えられていない。「カキツバタを守る会」の人に色々教えていただいた。この地に1000年位前からカキツバタの種というのか、株というものかは、あったらしいという事。ここに咲く花は人が肥料を与えないので、昔のままで、花が小さい。だから緑色の葉の間にかくれんぼするようなカキツバタの花。安城の里町の花の瀧も全体の雰囲気はこんな風だったのかなぁと妄想した。もし、慈円が鎌倉時代にそこを本当に通りかかったのなら、足を止めて、しばらく花を眺めたくなる気持ち、分かる、と思った。

 

今年(2019年)は今が開花のシーズンです。1日に見に来られる人が大体250人くらいだそうで、人ごみとは全く言えない、余裕のお花見ができます。車は近くの洲原公園第二駐車場に停めて、歩いて10〜15分です。散歩に良いと思いますよ。

author:1230fan, category:西三河, 21:30
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尊氏母の三河の屋敷跡 岡崎市日名町

尊氏が岡崎にいたかも知れないという話を地元の歴史教室で耳にした時、「尊氏のお母さんのお屋敷跡だって、あそこの、ほら、日名町にあるんだよ」と先生はサラっと言った。私はそれを聞いて、「尊氏のお母さん?なに〜〜!」と思ったが、先生は日名町の何丁目何番地までは言わなかった。気になって仕方なかったので、ネットで検索すると、やっぱり居るもんだ、コアの先人が。

コアな先人の情報を元に車を走らせる。けれど、1回では見つからなかった。カーナビで、その場所だという神社の名前を入れても案内しなかった。最初に訪ねた時は「たぶん、ここだろう」という場所をくるくる回って、見つからず、諦めて帰ってきた。

2回目は神社の名前ではなくて、住所で探した。住宅街の道に入り込んで、めぼしい神社がないか見て回る。たぶん、はたから見たら、挙動不審な車に違いない。で、通り過ぎそうになった角っこの、猫の額ほどの敷地に、小さな鳥居を見つけた。

 

鳥居にかかっている神様の名前は「春日大明神」。でも、本当に小さな神社。ホントにここが「尊氏のお母さんの屋敷跡」なのか?と不信に感じながら鳥居をくぐった。すると、お参りに訪ねた人に「ここがどういう場所かを紹介する」ための石板があった。

この石板は平成元年に出された岡崎市史に基づいて、ここが足利尊氏の母、上杉清子の屋敷跡だと説明している。ここにお母さんが住んでいたかどうかは分からないが、この地には昔から、尊氏のお母さんの屋敷跡(日名屋敷跡)だとの伝承があったそうだ。岡崎市史によると、この「日名屋敷跡」の近くの村墓地に尊氏の石宝塔の笠とほぼ同じ大きさの笠1個、14世紀後半のものがあるそうだ。これも「ここに、誰かいた事を偲ぶ記念」のものなのかなぁと想像する。

 

日名町の位置だが、大門よりも矢作川に沿って、南に下るが、一号線の八帖交差点までは下らない。大門と八帖との中間位の位置にあって、やっぱり、このお屋敷跡も矢作川の東側の川にごく近い場所にある。

 

それにしても上杉ねぇ〜、この上杉はどこに繋がっていくのだろう?なんて事をまた考える。

 

 

author:1230fan, category:三河, 22:33
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やっと辿り着いた 尊氏の墓? 岡崎市大門

徳川家康よりも、ぐぐっ〜と私を岡崎に引き付けたきっかけ、それは足利尊氏。そのお墓と言われる場所が岡崎にあるはあると、去年から知っていた。この前の信光明寺のこけら葺き見学会で主催者から頂いた岡崎の文化財「建造物」という冊子に詳しい住所があったので、連休中に行ってきた。場所は岡崎大門水郷公園の真横、八剣神社の奥だ。

隣の水郷公園はバーベキューができる公園らしく、この日の午後、公園の駐車場は車で一杯だった。八剣神社には駐車場が無いようだったので、鳥居の前に車を止めた。特に「こちらが尊氏の墓」的な案内表示も無いなか、お社に向かってズンズン前進した。ちっとも案内板は無い。お社の右側、この写真の奥の森の方に進むと、あった、墓と言われる石宝塔が。

ずんずん前へ

これが尊氏石宝塔

建築年代、南北朝1358年。尊氏が亡くなった時に供養のために建てられたそうです。中央部の円形の塔身とその上部に乗る二重軒の宝形作りの笠のみ当時の石だそうです。中央部の円形の塔身には銘文が刻まれているそうですが、見えなかったです。でも、嬉しかった。やっとご対面できたから。

これはちょっと時代ものの説明書き

 

これは最近の説明文

 

上の時代ものの説明書きにこの神社付近に三河における尊氏の屋敷があったと伝わる、って書いてあるのです。私はこれを読んで「かも知れん」と思うのです。最近の説明文の方にありますが、矢作川の東側と西側を結ぶ渡河点として大門は昔交通の要衝だったそうです。矢作川の、大門の向こう岸(西側・豊田市になる方)には北野という場所があるのですが、ここには飛鳥時代後期に建立されていた北野廃寺跡があります。鎌倉時代よりずっと昔に栄えた場所が向こう岸の北野にあったのだから、矢作川を渡った岡崎の大門に多くの人の往来があっても不思議じゃない?と素人の私は妄想しています。それに郷土史の本には、足利氏の重臣は矢作川の西側から敵が来た時に誰よりも早く敵を討つため、矢作川の東側の川岸近くに住んでいたとあるので、大将である足利氏自体が、矢作川の東側の川岸に住んでいたとしても、不思議じゃないなぁと思うのです。

 

石宝塔は尊氏の死を知った誰かが、尊氏の死を悼んで建てたもので、本当はお墓ではないけれど、大昔、ここに誰かがいて、この場から矢作川を渡って京都に出かけていった尊氏を見送ったり、京都から矢作川を渡って岡崎に戻る尊氏を迎えたりしたんじゃないか?と私は石宝塔を見つめて想像に浸っていました。「きっとここに立ち寄ったよね、尊氏」と思った次第です。

 

隣の水源公園じゃあ、みんなが今どきにバーベキューをしているのに比べると、自分はまるで違う事をしているけれど、静かに満足していました。

 

author:1230fan, category:三河, 23:40
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